「若者のコーヒー離れ」はまったく悪いことだと思わない

メディアではここ数年「若者の○○離れ」ということが取り上げられます。曰く、車離れ、恋愛離れ、ビール離れ等々。

どうしてこういうことが騒がれるのか?いろいろな分析がありますが、私は日本人の本質から来る不安感がそうさせているのだと思います。

日本というのは基本的に「ムラ社会」です。実際の地域単位の「村」ではなくても、例えば企業単位でも「ムラ」を形成する。

しばしば企業内で不正行為が行われ、それが隠匿されて長い間バレないでいたものが、内部告発などで明らかになるということが起きますが、これも例え犯罪でも「ムラ」の中ではそれに同調しなければならないという「ムラ社会」だからです。

この「ムラ社会」の中では、内部告発者こそ「裏切り者」であり「悪」となります。東芝のような世界規模の大企業ですら、国内ではそのような有り様だったために粉飾決算などがまかり通っていたのです。

「ムラ社会」という表現があやふやならば「同調圧力」といってもいいでしょう。

周囲と均一であることを求めるのが日本社会の本質で、少しでも違うと排除しようとする。これだけいじめ問題が騒がれても一向に改善されないのは、それが日本人の本質だから。

しかし、時にそのような同調圧力が薄れるエアスポットが生まれることがあります。例えばそれは江戸時代の江戸の街であり、そして今は東京や大阪などの大都市です。

同調圧力が薄れた江戸の街には、非常に個性的で多様な町人文化が育まれました。

今の大都市でも、たしかに集団性よりも個が強く主張する中では羽目を外し過ぎる愚か者も現れます。しかし、逆にどうでもいいような旧弊から脱した文化も生まれます。

また、大都市には選択肢が多く、その中で周囲に合わせるためにわざわざ自ら選択肢を狭めるなどという愚かなことをしなくても済みます。

私に言わせれば、例えば飲み会において飲めない人にも飲酒を強要し、必ずビールで乾杯しなければならないというようなそれまでのやり方のほうが愚かなことだと思えます。

選択肢が増えることはいいことだし、それが犯罪でもないならば、他人から選択を強要されるいわれはありません。

「若者の○○離れ」の文脈の中で「若者のコーヒー離れ」などということを言う人もいるようです。

中には、「コーヒーは訓練を経ておいしさを理解するものであり、今の若者はその訓練がされていないのがいけないのだ」などという、控えめに言っても常識外れとしか思えない主張もあります。

しかし本当にそうでしょうか?

では今のセブンカフェに代表されるコンビニコーヒーの隆盛はどう説明するのでしょう?

そもそも味覚なんて成長に従って勝手に変わるもの。

自分自身の例で言えば、コーヒーをおいしく感じるための訓練などした覚えはなく、ある時期からコーヒーを好んで飲むようになったに過ぎません。

確かにワインなど、本当のおいしさを理解するためには舌の訓練が必要なものもあります。でもそれは誰かに強制されるようなものではありません。

コーヒーも、美味しく感じるための訓練などしなかったけれど、たくさん飲むうちに自分の好みがわかり、また味のよしあしもわかるようになってきました。

コーヒーなどは嗜好品ですから、飲みたくない人が苦労して訓練を積まなければならないようなものではないでしょう。

それを、訓練していないのがいけないなどというのは、まさにムラ社会的な同調の強制という発想がなければ出てこない理屈です。

若者のコーヒー離れ大いに結構。

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