コーヒーの好き嫌いを遺伝子が決めているとは考えにくい
世の中にはカフェインの害を声高に叫ぶ人がいますが、そういう人の大部分はカフェインを摂取するとこんなことが起こる、あんなことが起こるという危険性だけ訴え、どれぐらい摂取すれば危険なのかについては触れません。
こういうのは、印象だけで煽動を行うデマゴーグでしかありませんね。
体の中にどれだけ入ると、どのような機序によってどのような変化が起こり危険かを、客観的なデータを元に示すのが、科学的・医学的態度と言えるでしょう。
ちなみに急性カフェイン中毒が発生する可能性が高くなる摂取量は、体重50kgの人でおよそ330mg/h。これは150mLのドリップコーヒーで5杯強です。1時間以内に750mLものコーヒーを一気に飲む人はあまりいないのではないでしょうか?
日本人がカフェインというものを初めて摂取したのは、遣隋使もしくは遣唐使という朝貢使を送っていた飛鳥時代から平安時代にかけての間だと思われます。
蛇足ですが、遣隋使・遣唐使はれっきとした公式の朝貢使節団で、日本は冊封体制からは外れていましたが、朝貢国であったことは間違いありません。
特に唐代の中期以降は中国には茶が普及しだしたので、唐に渡った日本人も茶に触れる機会は多かったでしょう。
公式では留学僧の永忠が嵯峨天皇に茶を献上したのが日本における初めての茶に関する記述です。ただ、それ以前に伝来していたという可能性も否定できません。
昔の日本人はカフェインに対する耐性がなかったため、お茶を飲んだだけで酔ったようになる人もいたといいます。
国内において茶の大量生産技術が確立されるまでは、茶は皇族や貴族、上級僧侶だけが飲める高級品だったと思われます。
しかし、国内で茶の生産量が増えるにつれ、武士階級にも広まり、室町時代ぐらいには商人も茶を飲むようになって、江戸時代には町人にまで広まります。
その長い歴史の中で、日本人は少しずつカフェインに対する代謝機能を強めていきました。
カフェインは肝臓のCYP1A2という酵素によって分解され、最終的に尿から排出されます
明確なデータが見つけられなかったので、単なる憶測という可能性もありますが、日本人はこのカフェイン代謝能力が欧米人よりも高いという人もいるようです。
長い間積み重ねてきたカフェイン代謝能力の強さは、日本人にとっては歴史が浅いコーヒーという飲料(コーヒー自体の歴史が浅いという意味ではなく)が、明治時代からわずか150年程度でこれほど広まったことと関係するかもしれません。
イギリスのエディンバラ大学の研究チームは、人が1日に飲めるコーヒーの量は、カフェイン代謝能力に関連する遺伝子が決めているのではないかという発表をしました。
研究チームが、およそ1,200人のイタリア人、1,700人のオランダ人の遺伝子を調査したところ、「PDSS2」という遺伝子に変異がある人は、変異がない人よりコーヒーを飲む量が平均して少なかったとのこと。
PDSS2は、カフェイン代謝の制御を行っていると考えられている遺伝子。なお、記事によっては「PDSS2という遺伝子変異体」と報じているものもありますが、それは間違い。正しくはPDSS2という遺伝子に変異があるかどうかが問題です。
PDSS2に変異があると、カフェイン代謝を促進する別の遺伝子に対して抑制的に働くと考えられています。その結果、体内のカフェイン量が減りにくく、そのためにコーヒーに対する欲求が変異がない人より少ないのではないかということです。
この研究を扱った記事には、これをもって「遺伝子がコーヒーの好き嫌いを決める」などと報じているものもあります。
しかし、ちゃんと読めばわかるように、この研究は「カフェイン分解能力は遺伝子PDSS2に変異があるかないかで左右される可能性がある」というだけのもので、コーヒーという飲料に対する嗜好性を左右するというものではないことがわかります。
研究結果でも、PDSS2に変異がある人は、イタリア人でもあの小さなエスプレッソカップ1杯分少ないという程度でした。
つまりは、有意に差があるといっても誤差ともいえる程度の違いです。
そもそも、コーヒー好きな人が全てカフェインを求めて飲んでいると考えること自体が間違っています。
カフェイン分解能力が低くても、コーヒーの味や香りが好きで飲んでいる人もいるだろうし、カフェイン分解能力が高くても、コーヒーよりほかの飲み物のほうが好きという人もいるはず。
それが嗜好性というもので、これは遺伝子うんぬんではかれるものではないのではないでしょうか?
ただ、西洋の錬金術が化学を生み出し、中国の錬丹術が医薬の発展に寄与したように、あるいは、多くの科学実験の「失敗」が新しい発見をもたらしたように、このどうでもいいような研究が思わぬ副産物を生み出す可能性はあります。
特に遺伝子分野においては、これまで治せなかった病気の治療法発見への期待もありますので、「で?」って言いたくなるような研究でも、頭から否定すべきことではないでしょう。