「究極のコーヒー」は存在するのか
コーヒーの話をする前にビールの話をしますが、以前友人と台湾に行ったおり、酒飲みの彼は現地で買った台湾ビールがいたく気に入った模様。それはもう食事のときから夜寝る前、果ては歩きながらも飲むという入れ込みようでした。
ところが、日本に帰国してたまたま見つけた現地と同じ台湾ビールを飲んだところ、薄くておいしく感じなかったそう。
台湾ビールは台湾の気候や食文化に合わせて作られているものであり、食べ物、飲み物というのはそれぞれの場所の気候風土によって合う合わないがあるという端的な例ですね。
世界的な飲み物といえばビールではなくコーヒー。なぜならコーヒーはムスリムも飲めますから。
世界各国に広がり、それぞれの土地で長短の歴史を持つコーヒーには、非常に様々なスタイル、味、飲み方があります。
例えばトルコではイブリックという小さな鍋で煮出す方式の、いわゆる「トルコ式コーヒー」が親しまれています。2013年には「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されたことが話題になりましたが、同年このトルコ式コーヒーも、無形文化遺産となっています。
ユネスコ無形文化遺産に登録されている文化のうち、コーヒーにかかわるものは2017年現在ではこのトルコ式コーヒーのみ。
しかし、飲んだあとにカップに残った粉で占いをするほどの量の粉から直接煮出したコーヒーは濃厚で、あっさり系のコーヒーが好きな日本人にはあまり歓迎されないかもしれません。
私などは濃い目のコーヒーが好きなため、トルコまでは行ったことはないですが、トルコ料理のレストランでいただいたトルコ式コーヒーは気に入りましたけど・・・。
日本人というのは職人気質を大切にする民族性を持ちますから、コーヒーにも職人的なこだわりをもつ人は多いようです。
それは、コーヒーのクオリティを上げるという良い面を持ち、それに感銘を受けたアメリカがサードウェーブ系のコーヒーを作り出したりしているわけですが、逆に偏狭に陥るというマイナス面があることも否めません。
昔はネルドリップでなければ本当のコーヒーの味は出ないとか、サイフォンでなければいけない等、自分のコーヒーの淹れ方こそ正しく、他は認めないという感じの頑固な喫茶店のオヤジが結構いました。
ネルドリップにこだわるオヤジは、お湯を注ぐヤカンだかポットだかの注ぎ口の角度や形状にまでこだわりがあり、サイフォンにこだわるオヤジは、抽出時間やら撹拌するタイミングやらにもこだわりを持っています。
それでも、人間の好みは千差万別ですから、どれだけこだわったところで全ての人がそれが最高の味だと思うということはありえないんですよね。
ですから、究極でも至高でもいいんですけど、そんな「誰もが認める最高の一杯」など作り出せるはずがありません。
そういうほぼ思い込みでてきているようなこだわりとは別に、科学の世界でもコーヒーのおいしさについては研究されているよう。
ポーツマス大学の研究では、コーヒーの粉にお湯を注いだときの流れを研究し、コーヒーの味を最大限引き出せる粉の大きさが発見されたとか。
あるいは、オックスフォード大学の研究では、カップによって同じコーヒーでも味の感じ方に違いがあることがわかったとか。
ところが、マサチューセッツ工科大学のクリストファー・ヘンドン博士という学者さんは、自分でそうしたコーヒーの味の研究をしておきながらも、「完全なコーヒーというのは主観によるもので、それは哲学に類するものであり、私にとっての最高の一杯は、他人の最高の一杯とは別」というようなことを言ったそうです。
まさに同感。
先日、インドネシアの最高級豆「コピ・ルアック」で淹れたコーヒーをいただく機会がありました。確かにえぐみもなく酸味もなく、非常にすっきりとした味でしたが、私はそれが大枚をはたいて買う味には思えませんでした。
というのも私はコーヒーといえばベトナムコーヒー、紅茶といえばインドチャイなど、どちらかといえば雑味とかそういうのもひっくるめて味わうようなもののほうが好きだからで、まぁそういう人間にとってはコピ・ルアックの味はあまりに高級過ぎたということ。
違いが分かるコーヒー通の人にはバカにされるかもしれませんが、私はそういうのが好きなので別にそれでいいのです。それに、私の舌は高級品でなくても満足できるため、安上がりで経済的。
要するに「究極のコーヒー」というものは人それぞれにあるのだから、自分の好きなものを飲めばいいと思いますね。