メイドカフェの元祖は大正時代にあり。維新後生まれた二つのカフェ文化
一世を風靡したものの今ではすっかり凋落してしまった「メイドカフェ」
まるで秋葉原のオタク文化を象徴するもののように言われていましたが、当のオタクに言わせれば「メイドカフェ」なるものは、短期間で終わり、しかもメインストリームというほどでもなかった二次元でのメイドブームが去った後に現れたもので、ガチのオタクが行くものではなく、メイドカフェなどというものをありがたがっていたのは非ヲタやニワカという認識です。
しかし、メイドカフェというのは平成の世にオタクカルチャーを模倣して出現した突然変異的な存在かというとどうもそういうわけではなく、その元祖と言えるものは大正時代までさかのぼれるようです。
日本にコーヒを提供するカフェが出現したのは明治時代のこと。しかし、それは純粋にコーヒーを楽しむ店というよりは、開国後流入してきた西洋文化を模倣する中でヨーロッパ風の「社交場」の役割をもったものでした。
明治末期の1911年に銀座にオープンした「カフェー・ライオン」はカフェといいながらも酒と料理も出すバーのような業態の店で、女給(じょきゅう)、つまりメイドが給仕をすることで話題となっていました。
その13年後、関東大震災の翌年の1924年に同じく銀座にオープンしたのが「カフェー・タイガー」。パクリだと指摘するのもバカらしいほどのパクリ店です。
こちらはライオンのほうではメインだった酒や料理よりも、芸者・女学生・人妻など様々な属性のコスプレをした女給によるサービスが売りの店で、これはまさに、素人料理にメイドの女の子のサービスを付加した今日のメイドカフェの元祖と言っていいでしょう。
しかしこのカフェー・タイガーは、銀座に通う文士連中にはたいそう人気だったらしく、永井荷風や菊池寛といった当代を代表するような作家たちまで通いつめ、永井荷風は馴染みの女給に余計なサービス料を要求されたり、菊池寛はビールの注文数に応じて決められる人気投票で、ひいきの女給のために大枚をはたいてビールを大量注文したりしています。
これと比べればボッタクリといっても今のメイドカフェは良心的だと思えてきます。それにしても、大正時代の男も平成時代の男もたいして変わりはないですね。メイドカフェに眉をひそめて高尚ぶっていたおじさまは歴史を勉強したほうがいいでしょう。
さて、カフェー・タイガーのような業態の店はその後さらにエスカレートし、カフェというよりキャバレーのようなものになっていきました。さらには「特殊喫茶」という分類にされ、風俗業とみなされるまでになります。
そういえば、昭和の時代には「ノーパン喫茶」という喫茶店の皮をかぶった風俗業もありましたが、それもこの流れをくむものと言っていいでしょう。
さて、大正から昭和にかけてのカフェが、こうした女給の過剰サービスによって風俗と化していった流れは、もう一つ別のものを生み出しました。それが「純喫茶」です。
これは、女の子によるサービスも、お酒もなく、純粋にコーヒーや紅茶、及び軽食などを提供する普通の喫茶店のことです。風俗扱いの「特殊喫茶」の存在のために、普通の喫茶店が「純喫茶」とわざわざ名乗らねばならなかったのですね。
純喫茶のほうは日本でコーヒー文化の普及に貢献し、やがて味が分かるコーヒー好きと、おいしいコーヒーを淹れることにこだわりをもった職人的なショップを生み出していきます。
女給カフェが行き過ぎて風俗になったのとは別の流れで、例えば「ネルドリップしか認めねぇ!」というような行き過ぎたこだわりの店まで誕生しました。どうやら方向性は違っても突き詰めなければ気が済まないのが日本人の性質のようです。
しかし、大量消費とドトールやスタバのような大規模チェーン、そしてデフレの時代を迎え、職人的なこだわりの喫茶店は衰退してしまいます。ところが、大規模チェーンの画一的な味とは違う、日本ならではの一杯一杯のコーヒーを丁寧に淹れる仕事に感銘を受けたアメリカ人いました。ジェームス・フリーマン氏、「ブルーボトルコーヒー」の創業者です。
日本人が徐々に目を向けなくなっていった日本ならではの丁寧な仕事の喫茶店にヒントを得たフリーマン氏がアメリカで作り上げたのが、「サードウェーブ」と呼ばれるカフェカルチャーです。